大原麗子は孤独死だった?死因の病気はギランバレー症候群?晩年の写真有り?

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大原麗子は1946年11月13日生まれ、出身地は東京都文京区、星座はさそり座、血液型はAB型の女優で1965年に東映に入社し、「網走番外地」シリーズや梅宮辰夫の「夜の青春」シリーズなど数々の映画に出演しました。映画「男はつらいよ」シリーズではマドンナ役を2度務めました。

他に出演ドラマは1989年NHK大河ドラマ「春日局」、1992年NHK「チロルの挽歌」に出演しました。2009年8月3日にこの世を去り、2013年3月テレビ東京で女優・大原麗子の生涯を描いたドラマ「女優 麗子~炎のように」が放送されました。

そんな大原麗子について調べてみました。

大原麗子の死因となった病気はギランバレー症候群?

大原麗子は2009年8月6日、実の弟たちによって自宅で死亡しているのが発見されました。大原麗子は1975年にギランバレー症候群を発症しました。

ギランバレー症候群とは、急性・多発性の根神経炎の一つで、主に筋肉を動かす運動神経が阻害され、四肢に力が入らなくなる病気です。他にも感覚神経の障害や血圧異常、不整脈など、さまざまな症状が現れ、重症の場合は呼吸不全を起こすこともある危険な病気です。

大原麗子は一時、完治したかに見えましたが1999年11月には再発したとして芸能活動を休止しており晩年はギランバレー症候群の療養のため、ほとんどの時間を自宅で過ごすことになりました。他にも、47歳のときに乳がんを患い手術したり、自宅で転んだだけで右手首を骨折したりなど、特に中年以降は怪我や病気が絶えなかった状態でした。

大原麗子の晩年の精神状態が強烈だった?当時の写真アリ?

大原麗子が亡くなったのは2009年8月3日のことでした。しかし実際に大原麗子の亡骸が発見されたのは死後3日も経過した8月6日でした。

つまり大原麗子は最後の瞬間を誰にも看取られなかったばかりか、3日もの間、放置されていたことになります。寝室に踏み込んだ関係者曰く、大原麗子は携帯電話まであと3mほど手前で息絶えていたと語っていました。

それは必至で誰かとの、つながりを求めた大原麗子の気持ちの表れに思えてなりませんでした。突然の訃報に世間に衝撃が走ったことは想像に難くありませんが、果たして彼女の死因は何だったのでしょうか、行政解剖後の発表によれば死因は不整脈による脳内出血と診断されました。

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不整脈とは文字通り、脈拍が乱れ規則的でなくなる状態を指します。一般的に心臓は1分間でおよそ60回~70回ほど規則的に脈を刻んでいます、つまりこの基準値を過度に上回ったり、下回る場合を不整脈とよびます。

公表された死因については不整脈による脳内出血と明らかになっていますが、問題は何が原因で不整脈が起きたのかという事ですが、主な原因として多いのが日常生活のストレスです。仕事のプレッシャーや将来の不安などによる身体的および精神的ストレスが不整脈を引き起こす原因とされています。

確かに晩年の大原麗子のエピソードを紐解くとある問題から心身共に病んでいたことが明らかになっていました。大原麗子はギランバレー症候群にかかっていましたが、完治した時期があり、また再発は考えづらいとの声も上がっていました。

特に2008年の自宅で転倒し右手首の骨折と膝の打撲という重症を負った事故については実弟の政光さんも「姉の勘違いだったのでは?」と語るなど病気の再発については否定的に見ていました。
全盛期には名女優として数々のヒット作を世に送り出した大原麗子ですが、晩年は自身の病気を理由に芸能生活をセーブしていました。

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歳を重ねるごとに仕事のオファーは減り続け、ようやくオファーが来たとしても内容はドラマの脇役程度だったといいます。大原麗子は人一倍努力家でプライドが高く自分にふさわしくないオファーは断わり続けたのでした。

当時、大原麗子は3億円ともいわれる豪邸に暮らしており、その時代の芸能史上最高額と言われており大原麗子の全盛期がいかに並外れていたものなのかかがわかりますが、晩年は生活苦で困っていたという事です。女性セブン(2015年9月17日号)が報じたところによれば、大原麗子は生活苦のため所蔵する高価な骨董品や絵画を全て売り払ったと記載されていました。

それでも事態は困窮しており、最終的には年金の受給開始前に一部を受け取れる、繰り上げ受給を申請するほどだったとの事でした。こうして身体的、精神的だけではなく経済的にも追い詰められた大原麗子は、そのストレスを近しい友人との長電話で解消していたのでした。

大原麗子が頻繁に電話をかけた相手は鹿沼絵里、浅丘ルリ子、森光子でした。大原麗子がストレスと寂しさを紛らわせるため、真夜中だろうと構わずに電話をかけてきては一方的に愚痴をこぼすという事でした。

そのことについて鹿沼絵里は次のように語りました。「古尾谷のことでも生き地獄なのに、まして子育ては1分でも寝られる時に寝ていたい・・そう告げたら大原麗子は「あっそ」と電話をガチャンと切ってしまいました」

これと同様に浅丘ルリ子も大原麗子からの一方的な長電話に苦しんでいたことを明かしています。

「そんなあなたともここ数年、何度も言い合いをし喧嘩になって距離を置いた時期がありました。夜中の2時、3時にお構いなくかかってくるあなたからの電話、長々と人様や自分の不平不満を訴えるだけの一方的な長電話。こんなことが何回も重なるとあなたの声さえ聞いているのも辛くて、もう麗子からの電話には出たくない、と思ったものです」

これは大原麗子の死後、浅丘ルリ子が葬儀の場で読まれた弔辞の一節です。また森光子も2人と同様に大原麗子の長電話にくるしんでおり、後に「電話をどうやって切ったらいいか困った」と明かしました。

大原麗子の長電話の内容は決まって他人や自分自身への不平不満でした。あれほど国民に愛された大原麗子がそれほどまでに変わってしまったのは全ては女優としてのプライドの高さと病気が原因だったかもしれないと思いました。

まとめ

葬儀の場で長電話に苦しめられた事を打ち明けた浅丘ルリ子ですが弔辞の中では次のようにも語っていました。

「私が思っている以上に深い苦しみを抱えて傷ついていたのだと麗子の心の内が見えた思いがしました。(中略)その時、あなたの抱えていた病気が、一人でいる寂しさがどんどんあなたの心をかたくなにしていったのだと今更ながら分かったような気がします。あなたがどんなに私のことを拒否しても姉としても、あなたをちゃんと受け止めてあげるべきだったのです」

お読み下さり有難うございました。

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